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【再掲】告知について考える【過去ブログから、そのまんま】

発達障害と分かったら、学校・担任に話しをして、

継続的に医師の診療も受けて時には、診療時に医師から

ゲットしたアドバイスを学校に伝えて、学校から相談があった

こまり感をさらに医師に伝えて、うんうんと頭を関係者がひねり、

問題解決を目指す連携を作っていく、

子供を支える体制を作っていくパイプ役って親の仕事だと思うの。



だけど、連携が不十分で見切り発車だと、

主義をハッキリしておかないと、

親が責任を果たして連携のパイプ役を務めないと、

返って子供がえらい目に合う場合がある。



********

その悲劇の一つが、子供本人は自分の発達障害を知らないのに、



周囲が「おまえは障害児だから」「おまえは発達障害だから」、

出来ないんだろ?(と決めつけて二次障害三次障害一直線)、

面倒見てやるよ(上から目線)、

こっちくるな(差別やイジメの始まり)・・・につながってしまう悲劇。

告知が心ない格好で、本人にされてしまう、悲劇。

告知が、返って、

本人の情緒や人間関係に悪影響を与えるパターン。



だから、「告知するかしないか」「周囲にどこまで言うか言わないか」は

セットで考える問題のように思う。



********

小さな知っている例では、高学年のアスペの男の子、

学年が上がってから発達障害と診断され、通級を利用することに。

でも実は本人とその友達がもともと、勉強に難がなかったせいもあり、

特に知的な障害に対して偏見があるタイプだった、良くないことだけど。

ゆえに、障害児であるからこその通級指導教室に通うことは、

親が相当の説得をし、本人が否定と肯定を繰り返しながら、

やっとの思いで受け入れて承諾したことだった。



親の告知は「ちょっと、考え方で損をしているから、もっと明るく

毎日を過ごせるように、気持ちの折り合いの付け方を教えて貰うために

通級に行こう。知的に障害があるという意味じゃないよ」だったので、

本人は自分が障害児だと分かっていない(認めていない)状態で

通級指導教室に通うことになった。



身近な周囲の理解は得られそうもなかったことから

人間関係を変えないため、学校では秘密にして欲しかったのに、



それを親が教員に伝えてなかったため、



担任が「だからみんな**さんが**小学校に行くときは

代わりにノートを取ったり授業で何を勉強したか教えて上げてね!!」と

やっちゃって、結局、障害持ちだということが周知の事実に。

子供が在籍校を登校拒否。もちろん友達関係もギクシャク。

 #まあ、もともとその程度の関係しか築けてなかった、ってことなんだけど。

担任が「本当に申し訳ない」と言ったらしいけど、後の祭り。

現在、通級指導教室には何とか来ているが、

周囲が知ってしまって以来、在籍校には行っていない。



告知を「本人にするかしないか」「周囲にするかしないか」、

この線引きをちゃんと、親が決めて、支える周囲に

伝えておかないと、知らせることが返って子供のためにならない、という

例のように思う。支えきれないという例になると思う。



その親は、担任を恨んでいる、とハッキリ言ったが、

「連携の手だてをまるで取らないままだった」のも事実だ。



通級の希望は、学校ではなく、あくまで親が出すもの。

親が主体で動くことなので、親が主導して

「通級の希望通りました、本人も行くと言っています。」と春に言えば、

親と本人が受け入れているから、オープンにしていいんだな、と

経験が少ない教員が誤解するのは、尤も。特に過去「発達障害児を

担当したことがある」場合で、その親子が障害に対してオープンだったら、

なおのこと。経験が邪魔をして、確認は取らないと思う。

ケースバイケースとあまり考えられないと思う。



出来る先生なら、最初から「ケースバイケース」と分かっていて、

「通級に通うことは他の親御さんやクラスメートには言いません。

 個人情報のひとつですから、言いません。

 今日は家庭の事情で居ません、体調不良ではないので明日は又

 学校に来ますよ、とクラスで説明します」とやってくれるが、

この言わなくても分かる、「当たりの先生」に会える確率は、かなり低い。



親が担任に、「でもクラスの皆さんには

通級のことは言いたくないと言っています(秘密にして)」と

最初に伝えておかないといけないことなんだ。



**********



告知って、上から目線の言葉だと思うの。



分かっている側が知らない側に伝える言葉、

なんだけど、

専門的な勉強をしていて、

これからも(求められれば)支える気が

ある医師が患者にするのが「告知」だと思うのね。



親が保護者が、発達障害児に、発達障害であると言う事実を

伝える、と言う行為が果たして「告知」という表現で

いいのかな、と思うけども、他に適当な言葉がないようにも思う。

「告白」「伝える」・・・なんだろうね。とにかく、

それをするべきかしないべきかについて。



さっき、

>専門的な勉強をしてこれからも支える気がある

と言う表現をしたが、告知の責任ってそこにあるように思う。

言い放し。

それが一番ダメ。



**********

それが死に繋がる病気だった場合の「告知」では、

するかしないかが大きな問題になるじゃん。

天涯孤独だった場合は、本人にせざるを得ないけど、

医師は取りあえず、本人ではなく、家族や支え手に大事な話をする。



「しない」で闘病生活をし結局知らないまま(あるいは

患者本人が知らない気が付いていないフリをしながら)、

希望を持ったまま死んでしまう、という流れもあるし、

あるいは周囲の隠し通す配慮や覚悟が足らず、

結果的に、患者本人が残された時間を知ってしまって、と

いうこともあるだろうし、

あるいは、下手したら間際に「分かっていたなら教えてくれれば、

残り時間の使い方があったのに・・・」と未練や恨みを残す

格好にしてしまうパターンもあると思う。



闘病ではなく、敢えて、病気とは闘わずに、痛みを緩和しながら、

残り時間を好きなこと(人に迷惑をかけることや犯罪行為はダメだよ)に

費やそう、という選択肢が合っても良いと思うから。



********

殆どの人は、

「自分が死に至る病になったなら告知して欲しい」と

健康なときなら希望すると思うが、



果たして体力的に弱っているとき、疲れ切っているとき、

残り時間が自分の希望予想よりも遙かに短いとき、

病気以外に経済的な問題などの困難を抱えていて

すでに精神的にイッパイイッパイだったときに、

同じ答えを求め得るかというとそうでもない。



受け入れには、まず、

「そんなぁ」と否定する時間があり、どうしようもない事実とわかり

がーーーん!と底まで落ち込む時間があり、それから浮上して、

手を考え動く気になって初めて「受け入れ」だと思うんだ。

浮上のためには、希望を持てる要素が必要なわけで。



否定する時間しか残されていない、浮上する時間はもうない、

浮上する他の要因が無く、将来の見通しがますます立たない、

と言う場合は尚、告知すべきか相当、する側が悩むことになると思う。



発達障害は一生もの、ゆえに、治らない。

 #周囲の支えと療育によって、改善はするけどね。

  放置は論外。ひどくなるだけです。

だから、伝えるかどうかは、伝える時期がいつか、は

保護者が常に悩み続ける課題だと思うの。



***********

告知が「吉」と出るパターンは、多少なりとも

「セルフモニタリング」が出来る親子の場合だと思う。

子供にその能力があまりなくても、親が気がつける場合、

何処をどう改善すべきか、次からどうすればいいのか

伝えられる。だから改善の余地が出てくる。



ぶっちゃけ、セルフモニタリングや振り返りが出来るなら、

客観性があり結果的に「空気がよめる」訳だから、

自閉症の特性の克服にも近く(爆)、

発達障害と言ってしまっていいもんか、的なアレもあるのだが、

実際、多分2号のように「微妙だな~・・・」と言われ続けた、

グレー判定が出たことがある・・・程度の子、

むしろ変なところで気が利くタイプ、人の問題行動や発言に

気がつけてスルーできないことがむしろ課題の子は、

伝えて、大丈夫なように思う。



ただし伝え方にもコツがあり、自尊心を損ねるそれにせず、

明るい見通しが持てる格好で

なおかつ今後も

親が支え手であることを明言しその通りにすること。

「あなたは気持ちのコントロールが非常に苦手なんで、

 それを何とか方法を、これから一緒に頑張っていこう」

「暴れるより、廊下で深呼吸して暴れない方がマシ。

 先生に許可を貰ってから、廊下に行きなさい。

 廊下で深呼吸するより教室の中にいて深呼吸する方がマシ。

 一番良いのは、カッときてもすぐ殴らずに「やめて」ということ。

 それが出来るように、これから少しずつやっていこう」

「あなたは整理整頓がとても苦手。そのせいで、大切なものや

 必要なものがなくなってしまったり、すぐに出てこなくて時間の

 無駄があったり、宿題を家に忘れたりしているよね?

 そこはよくないから、直さないといけない。

 直すための工夫を教えるから、今日から一緒にやっていくよ。

 欲しいものや使うものがどこにあるかすぐに分かる部屋、

 宿題忘れがゼロの小学生、コレが今年の目標」

これだって立派な告知。



発達障害と言う言葉を使う必要は無いんだよ。



*********

問題なのは、良好とは言えない親子関係、

子供の問題行動があまりに著しく、どうもセルフモニタリングに

欠ける場合(だから同じようなトラブルが繰り返される)、

発達障害と言うより知的なそれが問題になっている場合、

親が支える気ゼロで親が子供以上にアレな感じ、

あるいは、子供の問題行動及びその後始末に

疲れ切っている例でしょうなあ。



この場合は、動いてはいけない、告知の時ではないと思う。



ぶっちゃけ、教室で問題行動を起こして、苦情が来ているのに

毎回、何もしていない(とりあえずゴメンナサイさえ言えば、それでいいと

思っているし、下手したら子供がやったことで私のせいじゃない、

なんで私がそこまで言われなくちゃいけないのなどと思っているような)

状態の親が、告知しても、子供との関係が悪化するだけ、だと思う。

自分のせいじゃないと思っている段階で、オールオアナッシング思考が

悪い方に働いてしまっているように思う。親が実は極端なんだよ。

課題や起きてしまった問題に対して、親子で

発達障害を言い訳に使って、今よりもっと、全く何もしないように

なってしまう、と思うんだよね。発達障害だって分かった上で、

有効な策を取って、改善を目指していかないとダメなのに。



毎回何もしないってことは、つまり、問題がどれだけ大きいか

分かっていないということなんだ。結局のところ、子供の最適な環境に

ついて考えて、子供の特性について考えて、

子供にとって最適な居場所や教育、それを得られるように

親が動いている訳じゃないから、

学校が何とかすべきだと責任転嫁しているから、

告知したところで子供を支えきれないと思うんだ。



告知して終わりにしちゃう、それじゃダメ。



告知したら、その先があるんだ。



*********

実際、苦情が来て、出る言葉は謝罪ではなく、

「自分が精神病院に通っているから」とか「だんなが何もしなくて」と、

苦情を言われても自分がもう何も出来ません、と

親としての義務を放棄する宣言をする親が居る。



だからどうした。

苦情を言っている側は、今後も同じことが起こらないように

してほしいと言いに来ているのだ。それが読めていない。

相手の(問題行動に対するもっともな)要求が分かっていない。

だから子供も同じ感じ。

やらかしたことの重大性が分かっていないから、またやる。

強く非難すれば「発達障害だからしょーがない」と

発達障害という言葉を言い訳に使う。

やめてー。



子供を育てるのは、結局、親なんだよ。家庭なんだよ。



********

今後どうやって支えるか、その手がはっきりしていないなら

親自身がまだ戸惑っているなら、

見切り発車で「あんたは発達障害」と告げるのは

やめんさい。

吹雪の山の中、子供を裸で放り出すようなもんだ、それ。

言いたくてしょうがないって、親自身の衝動性が問題だ、それ。



一緒に頑張る、道を切り開いていこう、

私も発達障害について勉強していこう、と覚悟が出来たら、

事実として、子供に伝わる言葉で伝えればいい。

そしてそのための療育だったり初めて取り入れる方法なのだと

やって、課題を克服できるまで、寄り添う、応援する、工夫する。



結局、発達障害児を支え続ける、というのは、

何が問題なのか見極めて、それを解消するために、

長期的に

根気を持って

色々なアイデアや道具も取り入れながら、

周囲に理解を訴えて

周囲に受け入れて貰い、



やがては、発達障害児本人が

人に助けられたり時には助けたりも出来る、

居場所を確率できる、

相互関係を築けるようにするのが目標な訳で。



*********

プライドだけで生きているような発達障害児もいます。

根拠がない自信。

毎日支えて貰っていること、

大きなフォローが連続してされていたことには

一切気がつけない、客観性のなさが課題の子っています。

 #「やってくれて当たり前だと思われたくないんだ(怒」と

  身近な人や職場の人から言われたことがある大人は

  マジ要注意。感謝の気持ち、もしくは配慮が足りないと、

  人から指摘されていますよ。言われて直後に、あなたが

  変わることが出来れば、まだ関係が改善できます。

  指摘してくれた人が意地悪とかそういうことじゃないです。

  指摘する方は集団で「気が付けよ」とサインを散々出していたのに、

  あなたの態度や言葉に変化がなかったので、

  それは社会人として問題だったから、堪忍袋の緒が切れたのです。

  自信の課題に気が付いてください、改善してください。



この辺が大きな課題になっている場合は、

多分告知した場合、その後の心理フォローが大変です。

「そっか、あの人が怒っていたのはそういうわけか」という

納得より先に「僕は悪くない!!」「みんなが意地悪すぎる!」

と責任転嫁の怒り、

ひとりをみんなと見なすパニックに陥って終わりです。



*********

あまりにもセルフモニタリングが出来ていない子供には

「汚い問題行動」を辞めさせたくて、ビデオを見せる、という

究極の方法があります(自分で、気持ち浮上の手だてを持ち、

ある程度の羞恥心を知っている高学年以降、覚悟の上で推奨)。



ぶっちゃけ、授業中にハナクソほじって食べている(爆)とか

ずっとチンコを触っているとか、そして、それが明らかに対人関係に

大きな水を差しているが、本人が全く無意識。

そういう場合、それをビデオにとって本人に見せる、という荒療治。



少しでもセルフモニタリングが出来る子だと、

「えっ?!」と自分に驚いた後、(本当に気がつけていないだけ、

だったので)一気に問題行動が出なくなったり、時には、

本人がやった直後に気がつけ、あわてて辞めたり、と改善しますが、

 #心理的な落ち込みは相当だと思うし、黒歴史なんで、

  以後、それに繰り返し触れない、改善出来たら誉める、

  ビデオは確実に消去(処分)という形を取ってくださいよ。

  脳内でのフラッシュバックが大変みたいだから、

  下手したら落ち込みすぎの材料になります。その際の切り替え

  フォロー、継続的に忘れずに。決して笑い話にはしないこと。



中には

「これ、ぼくじゃない!」と真顔で言い切る子供が居る。

あるいは、

問題行動に気がつけず、自分が写っている姿を認めると

ハナクソをほる顔が面白いと本気でただ喜ぶ子がいる。

周囲が出している「やだなあ」「汚いなあ」の仕草を認められない。

自分が見えない、問題点を認められない子供が居る。



こういう場合、告知しても、多分、親が望む「理解」を

子供がすることはない、と思うんだ・・・。



前者は(問題なのは理解したが、自分が問題を抱えているとは

認めたくない)プライドがつよすぎて、

後者は結局のところセルフモニタリングが全く出来ていないので、

社会性に必要なだけの観察眼がないので。



*********

結局のところ、告知するもしないも、

ケースバイケースで、子供の状態をふまえた上で、

親がささえられるかどうかに

かかっている、と思う。



告知しない方が本人のため、療育がむしろしやすいと

おもうのであれば、それもあり。

ただし、知らされていない分だけ、本人が意識していないから、

ますます改善のスピードは遅いし、

親も2倍3倍の見守りと配慮、フォローをしていかないと、

こどもの、時に親子の、ぼっちレベル・孤立感は上がる一方。



告知した方が本人も分かった上で課題に取り組めると、

それが出来る子だし、自分も支える気があるのであれば、

告知すればいい。


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なぜ「ペアレントトレーニング」や「応用行動分析」を取り入れる必要があるのか

いきなりABAの話しようかなーとか思っていましたが、その前に。

私たち発達障碍児の親がどうして
『ペアレントトレーニング(以後ペアトレと表記)』や
『応用行動分析(以後ABAと表記)』を
取り入れて『子育て』しなくてはいけないのか、
考えてみた。
・・・というエッセイ的な持論展開的な。

そんなこまけえことはいいんだよ、ハウツーだけ
さらせや、という人は
今日はブラウザ閉じて頂ければ、と。

のちのちハウツー的な話もします、多分。
恐らく短期集中連載形式になります、
冬いっぱいかかるぜw ABA

*****
『ペアトレ』
子供が発達障碍餅と確定した段階で、
恐らく耳にする言葉だと思う。
子供にとっても親にとっても有効な方法。

すでにしくじっている親子関係の再構築に
役立つ方法、として。
 #そこまではっきり書いてある本はないけども、
  でもそういうこと。子供はすっかり自尊心をなくして
  投げやりになっていたり怒りっぽくなっていたり
  すぐ泣くような子どもになっていたり。
  何より、親のことを求めているのに、信用してない。
  親は親で常に子に対してイライラして不満だらけ、という
  なんだかな、な「親子の関係を、
  ちょっとでも変える」ための、むしろ親のほうがする
  トレーニング。

ところが、これを一応知ってはいるけれど
一通り本は読んだけれど
説明してくれているサイトはいくつか知っているけれど、
『これはまるで犬の躾だ!』といって毛嫌いする指導者がいる。
『自分には出来ない』として取り入れない保護者が居る。

反面「これはいい方法だった」「学んでよかった」
『いい意味で価値観がぶっ壊れて、子供と向き合えた」と
する保護者が多いのも事実で。

ちなみに私は後者。学ぶべきだし、例え部分的で在っても
毎日に取り入れるべきだと考える。
生活の土台となる親子関係の健全な構築のために。


私たちの体と理性は、ときどき、ものすごい乖離をする。

頭(理性)ではアレやらなきゃ、ああこの締め切り今日だった、
それももうすぐ提出だ、そうだアレずっとサボってた、そろそろ
なんとかしないと・・・、と分かっているのに、
体が全く動かないまま、動けないまま、結局
何もしないで、また一日が終わってしまったり。
実際に動けば1時間もかからない作業だったりするにもかかわらず。

関係の無いこの人に怒りを発散してはいけない、
これでは甘えだ八つ当たりだと分かっている(理性)のに、
優しい誰かにすがって、叫んで泣き喚いてしまったり。

極端なことを言うと、法律でも人道的にも駄目と
分かっているのに(理性)、
確かな殺意を持ってヒトを殺してしまったり。


私たちは子供を指導するときに、
ついうっかり「こころ」をひとつの「みなしの基準」にして
しまうところがある。

「共感」する心が誰にでもある、と思ってしまっている。

「そんなことされたら、自分だったらイヤでしょう?」とか
『自分だったらどう思う。想像してみて。
 だから二度とやるんじゃないよ』
こんな感じで。

いいと感じる、悪いと感じる、嬉しいと感じる、
哀しいと感じる、怒りを感じる、嘆きを感じる、
そういった「こころ」の部分を、判断基準に入れて
他人の気持ちや狩りの自分の気持ちを想像して、
そして、「行動する」「行動しない」のよりどころとしなさい、と
子供に対しても(時に大人に対しても)思ってしまうのだ。

そして、おそらく、「こころ」は
乖離しがちな『体』と『理性、精神』をつなぐ、とみなしているし、
そうであると信じている。

やらなくちゃ(理性、精神)、いやだけど(心)、動こう(体)。
言うべきではない(理性、精神)、辛いけど(心)、言わない(体)。
こんな感じで。
理性、精神と体のかけはなれてしまった途中をつなぐ、
こころ、が、
同じ状況にあれば、同じように思うもの、という仮定の上で。


でもねえ、仮定なんだよ、絶対ではない。
人は別々に生まれて、別々の心を持っているからね。

そんなことすら忘れて、ついうっかり
「あなただって、もし同じ立場ならどう?」とか
「ふつうはこう思うでしょう、だからやらないでよ」とか
言ってしまうのだ。

言ってしまうけど、同じ風景を見たから
同じ感想をもつのか、というと全然違うんだ。
それまでの経験やもともとの考え方、その何処に特に
注目したか、価値観、今の心理状況、抱えている問題、
そういうものが全てごっちゃになって、
それぞれが違う「こころ」で違うことを考える。

そもそも、こころ、というみえないものが
本当にそこにあるのか、という、それもスタートかもしれない。

実は自閉の傾向を持っていると
『自分の見聞きして知っていることは、当然、
他の人も知っている』とみなすので、
 #「アンとサリーの箱」で検索
もっとぶっちゃけると、親が実は自閉の傾向を持っていると
『子供も同じように考えるはず、同じ気持ちのはず』と
過度に期待している。同一視している。
基本的に、親子といえど別々の人間で
別々の感じ方や価値観を言うこころをもっていることを
忘れている。

そして「うちの子が何を考えているのか分からない、
親子なのに」と言ったりする。
いやいや、親子でも親友でも恋人でも、それは。



子供が自閉の特性を持っていた場合、
本当に『感じ方』が相当一般的な基準と違うので、
親がどれだけ「あなただってイヤでしょう?」と
いっても、大抵
『別にイヤじゃない』『別に本当に興味が無い』
『(親の気持ちが、何故親がそういうのか)分からない』だったりする。


つまり、「こころ」が、親も子もお互い共通のものとして
基準と出来るほどはっきりそこにあるのだ、と
同じ気持ちのはずだ、同じように感じるはずなのだ、などと
みなして、保護者が子育てすると、多分、痛い目にあう。

『どうして分からないのよ!』的な子に対する苛立ち
「どうして通じないんだろう」的な子育ての虚しさ、
「なんて常識が無いんだろう」的な子供への失望。
そんな気持ちを抱えて毎日接していたら、
そりゃ態度にも顔にも言葉にも、どうしたって出てしまうから、
子供との関係がますます険悪になる。


ペアトレは「子供を誉めて」
自尊心を保持する、自己有用感を高める、と
心の状態をよくすることを目的にしつつ、

方法だけに注目すると、
『親がそれを本音の部分でどう思っているかどうかは、
 親の心はテクニックとして避けておこう』だったりする。
『とりあえず、親がいままでどう考えていたか、何を価値観に
していたかというのは置いておいて、
こういう点に注目した価値観にスイッチして』という、
本音の根っこになる親の価値観をまず変えよう、というやり方だと思う。

スポンジ。穴があいていて弾力性があり吸収性に優れている。
力を受けては流すだけのそこそこの柔軟性がある。
ガラス。透明度が高く硬質で滑らかな表面が魅力。
ただし壊れ易く、かかる力には弱いので取り扱いには注意。

発達障碍児を育てたいのなら(育てる必要があるのなら、
逃げられないのなら)、障碍の受容がまずありきだと思う。

「受容がそもそも無理なんだって!」っていう親も少なくない。
普通の子がほしかったのに、なんでこんなに手間がかかるんだ、
暴言ばかりの子供で子育ての喜びが無い、つらいだけ、
なんで友達居ないのよ、そんな風に言う親も少なくない。
 #少なくともネットで『本音』『毒』とか言っている親の
   闇のつぶやきをみていると、ぞっとするものすらある。

でもきっと「障碍受容をしていない」というのは、例えば、
スポンジに対して「どうしてこんなに穴がボコボコあいてるのよ
気持ち悪い!」っていったり
ガラスに対して「隠しなさいっていってるでしょ?!何でマルみせ?!
何でこんなに壊れ易いのよぉ、割れたら危ないなあ、もう!!」って
いってるようなもんなのだ。
すでにそうである、という事実(障碍特性)があるのに、
どうやっても変えられない事実なのに、
変えろ、と無理をいう(そして無理を承知で言うのは暴力だ)。

スポンジには柔軟性や吸収性という長所があるのに、
ガラスにはなだらかな表面や透明性という長所があるのに、
そこには注目しない。
そこを誉めたり、子供の毎日に活かそうとは思っていない。

穴ぼこだらけなことや壊れやすいことを指摘して、責める。

好きな作家さんの本にね「シロクマがハワイより北極で生きるほうを
選んだからといって、だれがシロクマをせめますか?」って
言葉があったんだけど、そういうことで。

受容をしていない保護者は、
北極で生きることが最適なシロクマを
他で生きるように強要し、
体のつくりからそれが難しいシロクマを責めたてる。

****
心というものを拠り所にすると、多分、こける。

共感する心に乏しいから。
見えないものだから。
実は、あるのかどうか定かではないものだから、
あるいは、あるが、それは千差万別だから。

『私がこう思うから、あなたもこう思うはず、
 だからやめようね!』
『私がこういう価値観で、こういうことを大切に思っているから、
 あなたも同じ人間としてそうなはず、
 だからこうしようね!』
それでは、多分、特に、自閉の特性があったなら、
かなりつらい子育てになるのだ。
共感性に乏しいので、同じものを見ていないので。

ただ、そうはいうけど、『誉められるとうれしい』というのは、
どうもどの子供にもあてはまるようだ、ということになり、
また、「できない」部分よりも『出来ている、優れている』部分に
注目したほうが、精神面でも明るく過ごせる、と言うメリットが
あることから、「誉めて育てよう」というのがペアトレ。

スポンジが穴ぼこだらけということは気にとめず、
その柔軟性と吸収性を活かす。
ガラスが壊れやすいということには配慮して、
透明性をいかして適所に配置する。
ハワイで生きられない白熊を生き物として劣っているなんて考えず
北極ですいすい泳いで力強く狩る姿を見て圧倒される。

穴ぼこに、壊れ易さに、環境を選ぶ体に注目して
欠点だと嘆いて子供を責める親の視点をかえて、

柔軟性と吸収性と透明性と力強い姿に注目させて、

それをあえて言葉にして伝えることで、
親子双方の認識とし、

親子関係を良いものにした上で、
その上で、
親からの苦言を
子供が素直にきけるだけの信頼を築いていきましょう、
明るい気持ちで毎日を過ごしましょう、
子供にはいいところがいっぱいありますよ!というのが
ペアトレ。・・・だと思う。

********
ABAでは「こころ(心的要因」には注目しない。

やらかしてしまった結果や一連のヒドイ言動や行動に、
納得できる理由や原因を
「こころ」から探ろうとすると
限界が見えるからだ。

「こう思うから、こうするべき」と指導しても
通じなかったり、
「こう思ったから、こうしちゃったんだろうなあ」とか
理解したつもりになっても、
本人が聞いたら「えっwそれ全然違うんですけど」
だったり。

そして、心は目に見えないものなので、
それを変えようとしても、そもそも
働きかけによって変わったのかどうかも判断できない。
見えないんだから。

『あの子は、言えば分かってくれる子だと思うんですよ、
こちらの熱意や思う気持ちは、あの子の心に通じるはずです!』
なんていわれても、ハッ(←鼻で笑う)になってしまうのは、
「こころ」という不確かなもので絶対になんとかなると
主張していて、それは一瞬、もっともらしくて正しい上に、
一体感も感じ易いのだけど。でもきっと、見えない不確かな
ものが土台のそれは、熱意という働きかけでどう変わったか、
前後で比較しようも無く、万が一、子供に改善がみられなかった
(というより指導者の望んだ目標に達しなかった場合)、
自分は頑張っていた(と、みえない、確認のしようがない
指導する側の心を、まだ根拠において)、結局、
『社会情勢』とか『こんな世の中だから』とか
『今時の子は皆こうなのかなあ』という
社会や世の中や今時の子みんな、という
他の『集団の心』を、うまくいかなかった根拠にしようとする。

見えない心を土台にやっていくと、
理論上、納得し易い『説明」になっていても、
これだ!と共通の特定になりにくくて、そのうえ、
見えない触れないものだから、操作が難しいんだよね。

だから、
「多分、こう思ったからこうしたんだろう」には注目しない。
『操作が可能』な部分に注目してやっていく、
それがABA。

*******
さて
ABAって、あらためてなんじゃらほい。

行動を基準に考えた心理学が土台。
人や動物の「行動」を「環境との関わり」から見る考え方。
なぜ「環境のかかわり』に注目するのかというと、
それが、こころと違って、
『操作可能』であり、『目に見える、観察できるもの、
前後の違いがはっきりデータ化できるもの』だから。

どういった環境にあったら、Aという行動が出てきて、
Aという行動が学習されて、体得され、
維持されてしまうのか、あるいは改変されてしまうのか。
行動と環境に注目したアプローチ。

*****
心理学の1つだから『見えない』こころを
あつかってはいるんだけど、
でも「学問」である以上、
『科学的』でないと駄目なのね。

科学的であるということは、すなわち、
『客観的な測定基準』がちゃんとある状態。
基準に基づいた評価がされないと駄目で。

その観察結果や評価は
『具体的に記述される(記録が残る)』、
検証が出来るものになっていないと、ということになる。

そして、子供はドンドン変わるから
行動の観察や測定評価は、適宜くりかえしして、
実際にとって行く対策や方法に反映させていく。

*******
やっと「さわり」が終わったw

「記録・・・ということは、つまり、
この方法は、結構書かせるのねww」とだけでも、
思ってくださればw

次回たぶん「学習性の行動」が柱の話。
これが「犬のしつけかよ!」とツッコミ入るゆえんですが、
だがしかし、の部分です。

だかしかし、において、何人を納得させられる
文章をかけるかワタクシ自分との戦い。

















プロフィール

まみ

Author:まみ
ひっそりこっそり発達障碍ブログ。スペクトラム注意欠陥女子高校生1号とスペクトラム注意欠陥多動男子中学生2号のオカアサン。宣伝なしのマイペース更新でやっていきます。逃げない、あがく、前をみる。ツイッター「botmamichan」、黒猫アイコン。botが一日2回自動で呟き、手動で不定期投下してます。

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こねこ時計 ver.2
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